2017年5月。その日は、当時の勤務先で、大型連休中の休日出番でした。深夜勤務の時間帯に入り、ほかに誰もいなくなった職場。ひと息つき、思い出しました。きょうは、50歳の誕生日だと。「半世紀、生きた」ということに、素直に驚き、少し感慨にふけりました。定年退職まで10年。そのことよりも、「次(の半世紀)、どうする?」。そんな気持ちが湧きました。「どこまで行けるか分からないけど、新しいことにチャレンジしてみたいね」。このときの思いが、5年後、「社会福祉士を目指そう」とする自分の背中を後押ししてくれた気がします。
■「社会福祉士」と出会う
北海道に拠点を置く新聞社で30年、報道現場に携わりました。
取材記者として20数年、編集デスクとして7年近く。少子高齢化や過疎化の進む北海道は、「課題先進地」と呼ばれ、直面する地域課題は、「医療・福祉・子育て」などが中心でした。地方の市町村で、人手も地域資源も限られる中、そうした課題と向き合う人たちにも数多く出会いました。
強く印象に残るのが、オホーツク海に面するまちの社会福祉協議会で、地域課題に熱心に取り組むある職員の姿です。2011年の東日本大震災から、まだ数年しか経っていないころ。災害ボランティアの育成に力を注いでいました。災害は、「日々の暮らし」の弱点を突いてきます。「日ごろの備え」は、防災・減災対策にとどまらず、「日常の福祉」そのものの足腰を鍛え、点検しておくことも大切だと教えられました。
そして、「地域福祉」に目を向けるきっかけも。地域福祉は、高齢・障害・児童家庭・医療・貧困など、さまざまな分野をまたぎ、「制度のはざま」で課題が複雑に絡み合います。一筋縄ではいかない難しさに、関心が深まっていきました。
「ソーシャルワーク」という言葉を意識するようになったのも、このころです。さまざまな「困りごと・悩みごと・相談ごと」をかかえる人たちの声に耳を傾け、一緒に解決の道を探る。そんな「ソーシャルワーカー」という仕事がある。その一つに、「社会福祉士」という国家資格がある。それが、「社会福祉士」との出会いでした。
■「社会福祉士」を目指す
「勤続30年」の節目に、54歳で早期退職(定年特例)しました。埼玉で暮らす両親が80代半ばとなり、先々のことを考えると、近くに住んだ方がよいと判断したからです。その10年くらい前から「いずれ、区切りを付ける時が来る」と思うようになり、機が熟した感じです。自分の中でカウントダウンは始まっていたので、意識して一日一日を大切に過ごしました。名残惜しくはありましたが、悔いはありませんでした。
この時点でまだ、社会福祉士に挑戦するとは思ってもみませんでした。
埼玉に転居し、東京などに拠点を置く認定NPO法人で、1年半、事務局スタッフを務めました。児童養護施設や里親家庭など「社会的養護」のもとから自立を目指す子どもや若者の支援活動を続けている団体です。広報や企画などを担当しましたが、相談援助には携わっていません。ただ、そこでの仕事を通じ、「支援とは何か」「相談援助とは何か」について考える機会がありました。「もっと直にかかわってみたい」。そんな思いが強くなりました。
報道現場にいたころにも、似た気持ちがありました。取材し、課題を掘り下げ、報道し、世の中に訴える。反響もありましたが、一時的なものが多く、なかなか大きな動きには至りません。しかし、なおも目の前には、困難に直面している人たちがいる。それでも、取り巻く状況や環境が大きく好転していくことは、まれです。
隔靴掻痒(かっかそうよう)。そんなモヤモヤが、常につきまといました。それは、広報でも同じでした。もちろん、仮に、目の前にいる「その人」一人が困難から脱することができたとしても、一足飛びに世の中が好転するとは限りません。地道に、根気強く訴え続けていくしかないのですが、すごく遠回りしているようにも思えました。
自分に、何ができるのか。「福祉の現場に立ってみよう」「一から勉強し直し、社会福祉士の資格を取ろう」。そう決心し、自宅から通学できる埼玉福祉保育医療製菓調理専門学校の社会福祉士養成科(1年制)を選びました。55歳の時です。
■55歳で再び「学生」に
「学生」として通学するのは、大学生以来30数年ぶり。ワクワクした気持ちと、不安とが半々でした。社会福祉士の国家試験で課せられるのは19科目。記憶力に衰えを感じる50代半ばの自分が、果たして通用するのか。記憶の面では、確かに年齢とのたたかいでした。一方で、歳を重ね、これまで培ってきた経験が、むしろプラスに感じる場面もありました。
記者時代、さまざまな分野を担当し、「学び」の連続でした。でも、それは手探りの「独学」。専門学校で、あらためて体系的に学び直してみると、まさに「目からウロコ」の毎日でした。過去の「具体的なエピソード」が、「体験」として自分の中に蓄積されています。それと講義の内容とが結びつき、俯瞰して見直すことができました。それまで見聞きしてきたことを、一つ一つ「棚卸し」しながら、少しずつ言語化していく。そんな感覚でした。
ソーシャルワークについて学んでいて、特に印象深かったのは、「ソーシャルアクション」です。個別の支援にとどまらず、その課題を根本から解決するため、世の中に働きかけ、社会に訴えかけていく。実は「報道」もまた、ソーシャルアクションの一つの形なのだと気づき、一本の線でつながった気がしました。
■「地続き」を感じながら
「なぜ、新聞記者から、社会福祉士に?」。よく、そう尋ねられます。自分の中で、ソーシャルワークと報道は、地続きであり、根っこを同じくする。そう感じています。
特に地域福祉と報道は、アプローチの仕方が似ています。地域をコツコツと歩き、人と直に会って耳を傾ける。「支援につなげる」「報道する」という方法の違いはありますが、重なりあう点も多い。56歳で社会福祉士の資格を得て、品川区社会福祉協議会(東京)で「地域福祉コーディネーター(兼生活支援コーディネーター)」を務めるようになり、半年。日々、そのことを実感しています。
とはいえ、実務の中で、これまでの経験がそのまま生かせるほど、単純ではありません。「支援につなげる」ためには、どれだけ多くの「引き出し」と、臨機応変な発想⼒・対応⼒を⾝につけていけるか。しかし、実際には、耳を傾ければ傾けるほど、答えの見えない深みにはまっていく。そんな感覚にとらわれることも少なくありません。道のりの険しさと、「学び続けること」の大切さも痛感しています。
■「まちのソーシャルワーカー」
毎朝、大井町駅(東京・品川)から歩いて職場に向かう20分ほどの道のり。緩やかな下り坂の途中で、いろんな人たちとすれ違います。学校に向かう小中高生。駅へと足早に急ぐ通勤途中の大人たち。犬と散歩する人。玄関先で談笑するご近所さん。そして、小学1年生の娘と手をつなぎ、楽しそうに会話しながら通勤する父親の姿もあります。二人はいつも笑顔で、きょうは何を話しているのかなと、こちらまで心がほころびます。
言葉を交わしたことも、面識もなく、毎朝すれ違うだけ。それでも、だんだんと顔見知りになった気分になります。「地域とは」「コミュニティとは」。何気ない「毎朝の光景」に接しながら、考えを巡らせる大切な、そして、大好きな時間になっています。
希薄になってしまった地域のつながりや、コミュニティの結びつき。それを、どう再構築していくのか。品川区社会福祉協議会の第4次「支え愛のほっと・コミュニティ事業計画」(地域福祉活動計画、2024〜2029年度)には、こんな言葉があります。「新しい地縁型社会の創造」。地域の課題が複雑化し、〝向こう三軒両隣〟のような、昔ながらの「地縁型」の助け合いが薄れる中、いま、地域社会に求められていることは何か。その糸口を探るキーワードが「新しい地縁型社会の創造」にあると思います。
それを、どう「かたち」にしていくか−。
一つの夢があります。地域が、コミュニティが、生き生きと呼吸をしはじめるには、そこに住み、そこに携わる人たちが、生き生きと暮らせることが必要です。でも、「生き生きさ」の前に立ちはだかる「生きづらさ」や「困りごと・心配ごと・相談ごと」。それらを、地域に暮らす一人一人が「まちのソーシャルワーカー」として、お互いに耳を傾け、解きほぐしていく。もっと自然に、気軽に、お互いが「助ける・助けられる」「支える・支えられる」関係になっていけたら。もし、どうしても解決の難しい壁にぶつかった時には、専門職のソーシャルワーカーが、その輪に加わり、一緒に考えていく。そんな姿を思い描き、「少しでも近づくには」と考えを巡らせています。
その一つとして、共に「地域福祉」活動に携わるボランティアの方々や、地域に暮らす人たちに、専門学校で学んだソーシャルワークの、ほんの基礎の部分からでも、少しずつ伝え、共有し、一緒に考える機会をつくりたい。そう願っています。
■「わずかに光る尊厳」を大切に
ソーシャルワーカーとして、いつまで、どこまで、通用するのか。電話や窓口で相談を受けたり、自転車をこいで訪問したり。一人一人の抱える「一つ一つの相談」は、小さく、ささやかに見えても、その積み重ねの向こうに、課題の根本を変えていく何かがある。そんな目標を持つことのできる「職」と「機会」を与えてもらったことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
詩人茨木のり子さんの代表作「自分の感受性くらい」の中に、こんな一節があります。「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄」。その人の強み(ストレングス)に目を向け、支援の糸口を探るソーシャルワーカーにも通じる一節だと思い、大切にしています。誰かのせい、何かのせいにするのではなく、ストレングスと可能性にしっかりと目を向け、課題と向き合っていく。今ある「初心」を忘れず、人生の緩やかな下り坂を踏みしめていきたい。行けるところまで−。
—————————————この記事を書いた人——————————————
2024年3月 埼玉福祉保育医療製菓調理専門学校
社会福祉士養成科 卒業生 K.Sさん
4年制大学を卒業後、北海道新聞記者として約30年勤務。
2023年4月に社会福祉士養成科へ入学し、無事国家試験に合格。
現在は品川区社会福祉協議会に勤める。
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