幼年童話から保育を考察する

幼年童話から保育を考察する

卒業をいよいよ意識し始めた後期11月から2月上旬にかけて、保育士科昼間主2年生は最後の課題として「幼年童話から保育を考察する」取り組みを行いました。童話に出てくる登場人物や保育者の姿を通して、自身のこれまでを振り返りまとめる、というものです。取り組みに先立ち、私も大好きな「ロボット・カミイ」(古田足日/福音館書店)を学生たちへ紹介しました。小さなこども時代に母親が読んでくれた絵本が、その後の保育者人生でたくさんの気づきをくれるものになるとは、あの頃は思ってもみませんでした。

この春保育者となるみなさんへ、お祝いと応援の気持ちを込めてご紹介させて頂きます。

「ロボット・カミイ」(古田足日/福音館書店)

たけしとようこが作った紙製のロボット「カミイ」は、幼稚園へ通い始めました。ところが、年下の友達からおもちゃを取り上げて泣かせたり、せっかくみんなが作った土の山を崩したりと、なかなか仲良く遊べません。いつしか、「あんなロボット大嫌い」と、カミイとこどもたちの間に距離ができてしまいます。一方でお遊戯会やお店屋さんごっこといった、集団で取り組む園行事も目白押し。カミイは「ひとりぼっちでも平気だもん」と強ぶります。生活や遊びの経験を通して子どもたちとカミイが少しずつ距離を縮め、違いの良さを認め合えるようになっていく物語です。

「ロボット・カミイ」(古田足日/福音館書店)

保育現場のカミイ

今改めて読み返すと、保育現場で出会ってきた「あの子」が目に浮かぶようです。何にでも「ぼくがする!」と主張していたあの子。うまくいった時に喜びいっぱいに「見て!」と自慢していたあの子。見る物全てに目を輝かせて飛びついていったあの子、思うようにならない時に泣き崩れ、気持ちを立て直すことが難しかったあの子。幼児期のそんな歯痒い足踏み、伸びようと葛藤する姿を、私は人生で欠かせない「唯我独尊の時期」だと思っています。

唯我独尊はそのままだと「自己中心的で、自惚れている」というような意味ですが、小さな子どもが大きくなろうとする時こそ「自分ならできる」「僕だって」「私だって」と、自惚れのような…根拠のない自信というものは大きな活力となるものでしょう。

カミイは、庭の砂山を壊すわ、劇の最中に水を差すわ、小さな友達から折り紙を横取りするわ…と、次から次へと友達とぶつかる行動を繰り広げますが、どれだけ周囲から責められようとも「ぼくだって!」「ぼく、すこしもわるくないもん」とまったく動じずに主張します。一見手強く感じなくもありませんが、このカミイの姿にこそ、自尊心(プライド)の育ちを感じるのです。

もちろん、して良いことと、できるならしないでほしいことがあります。カミイがしているのはどちらかというと後者ですが、周囲の子どもたちもめげません。

「きみがそうくるなら、ぼくにも考えがある」とでも言うように、厳しく言い聞かせ約束をさせたり、「もう幼稚園から追い出そう」と一致団結したり、「仲間には入れてやらないぞ、カミイはひとりグループだ」と容赦ありません。もも組の友達が、カミイと対等にやりあう関係性だからこそ、カミイは悪い子になりきらずに済みました。

カミイが最後まで「根拠のない自信」を見失わず、集団生活を共に過ごした背景に、登場する保育者を覚えます。問題が起きる度に、すぐに仲介し行動を嗜めるのではなく「どうすれば良いと思う?」と子どもたちと確かめ合っていた場面(p39)、仲違いの果てに、カミイがたった1人でお店屋さんごっこをすることになった時、カミイの成長を見逃さずに見守っていた場面(p59-p70)から、こどもを信じる大人の存在が、こどもの自信につながることを学ばせられるのです。

これが保育所保育指針でいうところの「保育士等との信頼関係に支えられて生活を確立するとともに、自分で何かをしようとする気持ちが旺盛になる時期であることに鑑み、そのような子どもの気持ちを尊重し、温かく見守るとともに、愛情豊かに、応答的に関わり、適切な援助を行うようにすること」なのでしょう。

認め合いが自信につながる

カミイの行動の問題ばかり強調しましたが、カミイは良さや強みがないロボットだったのかというとそうではありません。「面白そうだ」と思ったら、遊びの輪に飛び込む積極性が幾度となく見られます。机を何台も一度に運んだり、砂利の入ったバケツを抱え上げたりと、力自慢でももありました。それらは、時にトラブルの原因にもなってしまう一面で、周囲をハラハラさせはしますが、誰にでもできることではありません。

こういう姿を「問題行動」と取り上げ、大人の言葉で「衝動性」や「強いこだわり」、「他の子と違うね」と言う保育者ではありたくないと、カミイを読むといつも思います。

「みんなと違うね」を「きみが持っている力は特別」と褒め認め、讃えることで自尊心は守られ、そんなふうに共感してくれた保育者へさらに応えたいと思い伸びようとするのが子どもです。物語の後半、カミイは体をはってダンプカーから友達を守りました。まさに向こう見ずであり、唯我独尊が突っ走った先でのできごとです。

保育士になるあなたへ

紙でできているはずなのに、「ぼくは鋼鉄製なんだぞ」と威張っていたカミイ。水に濡れてなきべそをかいたり、ぺしゃんこになって力を失ったりしたカミイ。そんな、まるでカミイのような子どもに、みなさんもこれから出会うのだと思います。唯我独尊に突っ走る子どもを見て、周囲はみんな、「紙のくせに」と笑うでしょう。

あなたが担任であるのなら、特別手のかかるカミイに出会った時、「紙なんだから仕方がない」と諦めないでください。子ども時代に、その子が自分を「鋼鉄製」…つまり「特別」だと思っているということはとても尊いことなのですから。でも、時には「あなたはどんな自分でいたいの?」と向き合い、「あなたなりに、なりたいあなたを信じるよ」と励ます場面もきっとあります。保育の仕事は、唯一無二の存在が、駆け出そうとする今に寄り添い、時に期待を込めて伝え、励まし、喜びあえる仕事です。

その喜び、手応え、醍醐味を現場の最前線で感じた時にこそ…また保育を語り合えることを楽しみにしています。

文章を書くという専門性

立ち止まり振り返るために記録があります。ねらいと方法を見失わないために計画案があります。

保育者の書類仕事は膨大です。それらを「保育者を疲労させる悪しき習慣」と言う人も保育者の中にいるにはいますが、それを自身の技として使い「ねらい」と「方法」を見極めてきた保育者こそが、現場で子どもの見えない力を伸ばし、生きる力の基礎を培うという襟持ちのもと、日本の保育を支えて踏ん張ってきたのです。

保育の工夫、生活と遊びのある時間の流れ、保育の歴史を紡いで築いたのは、ねらいを見つめ、子どもの姿を思い浮かべ、記録を残した保育の先人たちです。

私は授業で口うるさく、目ざとく文章を指摘してきました。何度も赤ペンを入れて推敲を促してきましたが、つまり、言いたかったのは「ねらいを見失うな」ということです。

振り返り、見通しを持ち、ねらいのもとで保育を実践する力は、文章を書くと鍛えられます。

保育現場に出てみなさんが伝えたい、考えたい、知りたいと思った時、また文章を書いてください。思いを書き殴り、読み返しては書き直しているうちに、自分自身の中の「保育観」が磨かれます。その文は子どもと紡ぐ宝物となり、明日の保育へ一歩踏み出すみなさんのお守りになるはずです。

学校を卒業すると同時に取得する「保育士資格」は、時間の流れで自然に取得した資格ではありません。努力を重ね専門性を磨いてようやく手にした国家資格であることを、私はこの目で見てきました。

この先も、専門性を磨き続け、専門職としてご活躍されることを期待し、信じています。

この記事を書いた先生

  • 保育士科
  • 保育士科 夜間主コース

上條 友葉先生

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