嗅覚刺激が軽度認知症高齢者の短期記憶に与える効果の検証

年度 2015
学科 介護福祉士科

1、はじめに

匂いと記憶には密接な関係があるといわれている(山本、2008)。嗅覚は、五感のうち嗅覚以外の4つの感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚)と異なり、嗅神経を通して直接大脳辺縁系に情報を送る。匂いを伝達する入り口となるのは大脳辺縁系の「第一次嗅覚野」という部位で、これは記憶を司る「海馬」につながる「内嗅皮質」という部位と隣り合った場所にあるため、嗅覚への刺激は記憶や感情を強く呼び起こす作用があると考えられている。
一般的に、加齢に伴い短期記憶は低下するといわれており、認知症の中核症状である記憶障害によって、それはより顕著に表れる。
嗅覚刺激が短期記憶に与える影響について、伴野他(2008)は、健常大学生において、視覚・ 聴覚による2刺激提示よりも、視覚・聴覚・嗅覚による3刺激提示のほうが記憶し易いことを明らかにしている。しかし、短期記憶の低下が著しい、認知症高齢者に対しての研究は知る限り見当たらず、本研究で検討することとした。
私たちは実習や現場で、認知症の方が少し前に食事したことも忘れてしまったり、家族の方が来てくださったことも忘れてしまったりしている状況を何度も見てきた。本研究において、短期記憶力向上の糸口がつかめれば、認知症高齢者の方々の QOL の向上につながるのではないか。

2、仮説

視覚刺激に加えて嗅覚刺激を与えることによって、認知症高齢者の短期記憶力が向上するのではないか。

3、研究方法

1) 対象者(表1)
ミニメンタルステート検査(MMSE)によって認定された、20点前後の軽度認知症高齢者6名(ただし、F さんに関しては、入院したことで若干認知面の低下がみられている)。

2) 実施場所
さいたま市内の介護老人保健施設 A の換気ができる部屋。
3) 実施期間及び時間帯
2015年8月23日~10月11日の計8日間のおやつ後15~16時頃。
4) 手続き

物品を7品目(初回のみ8品目)用意し、テーブルの上に並べられた物品を短時間の中で覚えて頂いた(ただし、使用する物品は前の実験日と同じ物品を使わないようにする)。次に3分間塗り絵を行って頂き、その後物品を再生して頂いた(図1)。品目数については、健常な人が一度に記憶できる数7±2個を参考とした。対象物品は表2の通りであった。物品を、サランラップを敷いた透明な容器に入れ、蓋をして密封した(図2)。視覚と嗅覚の同時刺激においては、調査開始の直前に蓋を開けることとした。準備した計7品目をテーブルに約10cm 間隔ずつ、被験者が物品を認識できる位置に並べた(図3)。なお、記銘の時間以外においての視覚刺激を防ぐ為に、毛布等で物品の上にかぶせておいた。

次に、被験者に事前説明を行い、同意を得た。次いでテーブルの前に移動して頂き、その日決められた刺激条件(視覚刺激のみもくしは視覚と嗅覚刺激どちらか)での記銘を2分間行って頂いた。その後、近くにある隣のテーブルに移動し、塗り絵を3分間行って頂いた。その後、その場で1分 30秒の間に記銘した物品について自由再生して頂き、正答数をカウントした。
対象者に対する負担を考慮し、各条件の実施を1日目は視覚のみの刺激、2日目は視覚と嗅覚の同時刺激、のように、それぞれ別の日に行った。1回一人に対する実施時間は7 分間程度であった。

4、倫理的配慮

研究結果や収集したデータは外部に漏れないようにし、研究施設や研究対象者が特定されないよう、施設名称や研究対象者氏名は匿名にした。なお、研究対象者に事前に説明し、参加は本人の意思でして頂いた。

5、研究結果

結果は以下の通りとなった(表3、表4)。
各条件における全対象者の物品の正答数の平均値を比較するために t 検定を行ったところ、視覚のみの条件において視覚+嗅覚条件に比べて正答数が有意に多い結果となった(p<0.01)。

6、考察

実験の結果、視覚刺激に加えて嗅覚刺激を与えることによって、短期記憶量が少なくなるという、仮説とは逆の結果になった。
今回、被験者にとって身近な、あるいは昔から馴染みがあるであろう物品を用いて実験を行った。牧迫他(2013)によると、軽度認知症高齢者は、認知症のない高齢者に比べて匂いの親近度の感受性が低下することが示されている。さらに、漁田他(2014) によれば、嗅覚は「順応」という現象を起こしやすい。嗅覚における順応とは、匂い刺激が定常的に提示されることによって、時間とともに匂い刺激に対する感受性が弱まることである。今回の実験では、対象者が自由再生する際の想起の過程において、感受性の弱まった曖昧な嗅覚記憶が、視覚記憶と結びつくことで混乱を生じさせ、記憶を阻害する要因となってしまったのではないか。
以上のことから、軽度認知症高齢者への嗅覚刺激は、短期記憶に対する相乗効果を生み出さず、かえって記憶の低下を生じさせる可能性が考えられる。

7、まとめ

本研究では、視覚情報に嗅覚情報を加えることによって、軽度認知症高齢者の短期記憶力が向上するかどうかを検証した。その結果、視覚情報に嗅覚情報を加えると、順応による匂いに対する感受性の低下が原因で混乱をきたしてしまい、短期記憶力が低下する可能性があることがわかった。
今後は、対象を増やし結果の普遍性を検証するとともに、より精度の高い、要因の特定が可能な実験条件で検討を行いたい。
現場において、声掛けやジェスチャーをしても相手にうまく伝わらないことは多々あり、その結果双方がイライラしてしまうこともある。そこで本研究結果を介護現場において、わかりやすいシンプルな視覚情報をうまく活用した介助方法につなげていきたい。

参考文献
山本晃輔 においによる自伝的記憶の無意図的想起の特性:プルースト現象の日誌法的検討 出典:認知心理学研究 Vol.6(2008)
伴野明、神田こより、大竹俊弥 映像への香り付加が誘目性と記憶に与える影響
出典:電気学会論文誌 E(センサ・マイクロマシン部門誌)Vol.128(2008)
牧迫美穂子、石附智奈美、宮口英樹 軽度認知症高齢者の嗅覚記憶と匂いの「快度」,「強度」,「親近度」 出典:作業療法32巻4号(2013)
Takeo Isarida,Tetsuya Sakai,Takayuki Kubota,Miho Suzuki,Yu Katayama,Toshiko Isarida 短期保持期間後の自由再生における匂い文脈効果:順応の新しいコントロール法(2014)

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